自分と他者の間にある「ケア」のかたち。

テクノロジーと活かしあう関係性が、新たな「水道哲学」になる未来
自分と他者の間にある「ケア」のかたち。 自分と他者の間にある「ケア」のかたち。

コロナ禍を通過している現在、Well-beingが実現した、あるべき暮らしの形とはどんなものだろう。また、そこに貢献できるロボティクス技術とは何だろうか。

そんな問いを立てながら昨年お話をうかがったのは、早稲田大学文学学術院教授のドミニク・チェンさんと、デザイン・イノベーション・ファームTakram コンテクストデザイナーであり慶應義塾大学SFC特別招聘教授の渡邉 康太郎さんでした。

幸せとテクノロジーの共生についてお話をうかがった前回に続き、今回のテーマは「ケア」です。生活様式の変化と共に、時間の有限性を実感した人も多い今、自らを、そして、身近な人を大切するケアの行いとは、どんな生き方のことなのでしょう。

お話をうかがうのは、パナソニックグループCTO小川 立夫と、パナソニックのデザイン本部におけるユニバーサルデザインの第一人者、中尾 洋子です。

新たな時代の”水道哲学"を求めて

小川:今わたくしたちの会社では「サステナビリティ」と「Well-being」という二つの大きな考え方をどう捉えていくべきか、と議論しております。創業者の松下幸之助は「水道哲学」というものを提唱したことでも知られているのですが、それは水道水のように蛇口を開いたら誰でも手に入れられるほど豊富な供給によって、重要で大切なものを誰もが手にできる社会を目指す、という経営哲学でした。長年、会社の目標として取り組んできたことです。

しかしもう21世紀。物質的なもので世界を満たす時代ではなくなった今、これをどう捉えたらいいのか、と考えています。おそらく「サステナビリティ」はエネルギーや材料などをグリーンで安全なものにしていくこと、そして「Well-being」は、ケアすることなのではないか、と思っているんです。

自分自身のケア、あるいは自分と他者の間のケア、もしくは、自分と自然環境とのケアなど、市場で商品化されているものではない本来のケアのかたちを考えたいと思っています。もしも、あまねくケアが行き渡る社会になったら、くらしの領域における新しい「水道哲学」になるのではないかと、と思うのです。

インタビュー風景

ドミニクさん:すごく良いですね。前回の話から繋がる展開だと思います。ただ、一般的なユーザーにとって、パナソニックという企業と「ケア」のコンセプトがどういう風に映るのかは少し気になるところですね。

小川:おっしゃる通り、一般的にパナソニックがケアといった時のイメージは、たとえば
高齢者のケアやサービス付き高齢者住宅などかもしれません。ただ個人的には、コロナ禍以降、ケアすることを見直そうとしている人が増えたように感じています。多くの方にとって、どこにも出掛けられない状況下で自炊の機会が増えたことや、家族と一緒に自宅で過ごす時間の中で、生きていくために本当に必要なエッセンシャルは何だったかを考えた数年間だったはずなんです。

両義性として、提供する我々も同じで、今までの家電など、一体何のためになっていたのか、ということを考えています。ただ手間を減らすということだけではなく、自分自身のケアに繋がるようなことを考えたいんですね。例えば、私たちが提供する家で暮らしていただけたら、より健康になって、やりたいことを始められるような、そうしたことをアフォード(提供)できないのだろうか、という課題意識を持っています。

インタビュー風景

渡邉さん:なるほど。コロナ禍で加速したことの一つに、目的を研ぎ澄ます、ということがあったと思います。これまでと違って、同じオフィスにおらずオンラインの時間が多くなると、何かちょっとしたことでも、一回アポイントメントを取らないといけない。「このことを話したい」と目的が研ぎ澄まされていないと、そもそも会話の機会すら作れない。もしかしたら、これまでも目的はあくまで口実に過ぎず、実は話すこと自体が大事だったのではと、機会が失われてから思ったりもします。

人の行為は、ときに副産物のほうが意味を持つと思うんです。例えば、ちょっと飛躍しますが、洗濯すること。目的は服を洗うことなんだけど、自分で服をきれいにするなかで、結果的に生活にリズムが生まれたり、自分の気持ちまできれいになるような、そんな捉え方ができます。

ドミニクさん:確かにそうですね。ただ汚れを落とす、マイナスの状態をゼロに戻すだけが洗濯機の役割じゃなくて、衣服に対する解像度が上がるような体験ができる。自分の服だけでなく、妻や娘の服を洗ってそれを畳むことまでしていると、自分のためのケアにもなっている気がします。

前回も確かそうした、ライフスタイルに繋がる新たな形を、パナソニックさんのような企業がどうやって値段をつけるものにするのか、という課題でしたよね。僕自身、果たして企業は、そして僕ら生活者も、利便性至上主義から脱することができるのか、興味があります。だって「全てが自動化されたら良い」という考え方の先に、あまりいい未来はなさそうだということに、もう僕らは気がついていますよね。洗濯でも料理でも掃除でも、少し面倒くさいようなことが必ずしも排除されるべきではなくて、その中に自分や周りの人をケアする方法があるようにも思えます。

ケアと時間の掛け算が生み出すもの

ドミニクさん:最近、学生たちと話してきて気が付いたことの中に、コロナ禍以降、「手紙」というものを卒論のテーマにしたいという声が増えたんですよ。今、世界中の人々のコミュニケーションはほとんどLINEやSNSのDMになっていて、すぐに相手に伝わるものになりました。今、手紙への興味が強まるということは、チャットやDMなど瞬時に伝わるチャネルに対しての、ある種の違和感の表明でもあるんじゃないかと思うんです。

自動予測変換で3秒も掛かってないテキストメッセージと、少なくとも3分は掛けて書いたであろう手書きの手紙。3秒と180秒の差は些細なものでも、60倍の時間を掛けたという文脈にこそ価値があると思うんです。時間をかけるということに、ケアの本質が潜んでいるのかもしれません。

渡邉さん:手紙には時間が梱包されてますもんね。手紙を書くのに掛けた時間と、人と人の間で育まれる時間がある。僕は学生時代、友達と旅行に行って、旅先からその友達宛てに手紙を出す、ということをしていました。自分たちの方が手紙より早く帰ってきちゃうんですけど、数日後に友人の手元に手紙が追いつく。封筒を開けて読むと、その手紙が書かれた旅行先の過去の瞬間が立ち現れる。ただ、相手の目の前で手紙を書いていたわけではないので、相手の記憶にはなかった過去のある時点の記憶が、新たに刻まれるようなイメージなのかも、と思います。見えないしおりを過去の記憶に挟みこむような実験とも言えそうです。

中尾:時間をかけるケアということでひとつジレンマなのが、料理や洗濯に向き合ってケアしたいけど余裕がない、という方々への伝え方です。時間をつくることをテクノロジーで提供すべきなのかどうか、アプローチが悩ましいんですよね。

ドミニクさん:そうですね、余裕のなさは経済的、心理的、労働環境的、家族関係的など複雑な繋がりの結果だとは思うんですが、では情報技術の利便性によって時間的余裕を作ろうとした結果、実はそれが一番時間を奪ってしまったことになりましたよね。

前回も少し話しましたが、インターネットなど情報社会の中毒性は結局、余裕というものを阻害している要因の一つだと言えます。逆に言えば、いかに技術が主役として介在しないでいられるか、ということが大事になるのではないでしょうか。これは、企業から顧客に対するケアの形のひとつになるかもしれません。

渡邉さん:ケアと時間ということで連想するのが、料理のことです。Takram創業直後で激務の頃、深夜まで仕事をして、シャワーだけ浴びに帰宅し、またすぐ会社に行くような時期がありました。ある夜、23時頃に帰宅したらすごく早く帰れた気がしたんです。それで急いで買い物に行き、深夜にシチューを煮込みました。別に得意料理でもないし、なんでこんなことしてるんだろうとも思いながら。何年も経って妻にその話をしたら、最高のセルフケアだね、と言ってくれたんです。そのとき初めて気が付いたんですが、確かに一見無駄な時間を掛けて、仕事とは無関係に始めた料理は、自己の労りの作法だったのかも。これも、ケアに時間が介在していることだと言えると思います。あえて時間の掛かる食事を、自分のためだけにつくるというケアです。

ドミニクさん:僕の妻も同じようなことがありましたよ。毎日深夜に帰ってくるようなことがあっても、仕事の愚痴を言いながらフライパンを振ったりしていました。ある日、会合先で見た、料理から解放されるキッチンのロボットの話をしたら、「私から料理の楽しみを奪うのか」と一蹴されたこともあります(笑)。面倒くさいとか、自分で作らなくちゃいけないとか、それ自体は別にネガティブな要素ではなくて、そのために早く仕事を切り上げようという発想のプロセスこそ、今後は必要になっていくでしょうね。

インタビュー風景

小川:今の自分に手間をかける、生きていくことに手間をかける、ということですね。時間とコストですぐに結果に辿り着けるわけではないんだ、という感覚を持って生きること。簡単に服のシミが取れるだけじゃなくて、お気に入りの服を自分できれいにしたことで、その服に体を通した時に、自分でできたと実感する豊かな感情につながりそうです。

適度な所要時間と、自己効力

渡邉さん:自分でできたといえば、一つ思い出した話があります。僕はたまに、ある有機野菜通販のサービスで、ミールキットを注文するんですね。必要な野菜や調味料が小分けになってパックされていて、レシピ通りに手順を追うことで材料を余らせず、かんたんに料理ができるというものキットです。

その企業の社長にお会いした時、「ミールキットは料理が苦手でも手早くできるので、重宝しています」とお伝えしたところ、「実は簡単になりすぎないようにこだわっています」と教えてくれました。曰く、「20分くらい掛かるのがキットとしてちょうど良い」そうなんです。あまり長く時間を掛けすぎると、一から自分で作るのと変わらない。反対に、究極的に簡単な料理はもはやインスタント食品になっちゃって、手を動かす喜びよりも罪悪感が勝ってしまう人が多いそうです。一定の時間をかけることが自己肯定や満足に繋がっている。ここには、具体的な分数とは別に、誰かのために時間を使うことの大切についてのヒントがあるように思いました。

ドミニクさん:時間の掛け方を、他者が評価すると権力構造に繋がってしまいそうだけど、自分自身の感覚において、時間をかけることの意義を感じながらも、ただ時間を掛ければ良いと思っているわけではないというバランスが大事なんですね。

中尾:最初に食器洗い乾燥機を作った時、あまり売れなかったと聞いたことがあります。食器洗いを自分でしないということが、主婦やお母さんの罪悪感に繋がっていたそうです。でも節水になることや、それが環境のためになる、と伝えたことで売れ始めたと聞きました。自分の中で解決ができれば飛び越えられることがあるんでしょうね。

誰のためのケアであるべきか

渡邉さん:僕が続けている茶道に当てはめると、お茶も「もてなし」、つまり相手へのケアだと言えそうです。点前(てまえ)では、もともと茶室に道具は置いておらず、運び入れるところから始まり、点茶の前に、袱紗(ふくさ)という布で道具を清めます。もちろん道具は最初からきれいなんですが(笑)、目の前で清めることで、主客双方の心も清らかになります。効率で言ったら無駄な時間と考える人もいるかもしれませんが、こういった時間の共有は、一座建立のケアかもしれませんね。

茶道には、他にも精神的なケアの要素が色々ありそうです。茶室のことを「囲い」と呼んだりしますが、離れとして部屋を四つの壁で囲うことで、俗世から囲い、外の世界と区切ることができる。実際に、茶室で時間を過ごして数時間後出ると、ふと、仕事など外界のことをすっかり忘れていたと気づきます。さっきまでとは違う自分になっているような、小さな変身をしたような気持ちになる。ものの見方が変わったような、自分の思考の作法がまるまる切り替わっちゃったような、そういう感覚です。

ドミニクさん:おもしろいね。僕もちょうどこの前の週末、土曜と日曜の連日、能楽に浸る時間を過ごしてきました。そこで今みたいなことを感じたんですよ。

というのも能って、お客さんのことをあんまり気にしてないんですよね。もちろんお金をいただく芸能なので引きつけなきゃいけないわけですが、でも例えば、何を言ってるのかよく分かりにくいし、聞き取れない。踊りや所作もよくわからなくて、逆に言えば観る人による解釈の余地しかないものです。なので最初は退屈だなぁと思うんだけど、でも一回退屈に入ることで別の思考が呼び覚まされて、その後はようやく能の体験をすることができる。能を見てると、まさに時間感覚のOSが入れ替わるような感覚になります。

渡邉さん:時間を掛けて自分で料理をする、囲われた茶室で茶を振る舞う、退屈を通り越して能を体験する。こうした、参加の余地が一定を超えた時に新たな意味が宿るのかもしれませんね。

小川:今のお話を聞いていて思ったのは、「自分と他者をケアする」ということが出発点なのかな、と思いました。自分のためでもあるけど人のため、あるいは人からケアされるという、すごく相互依存的なことに命の営みがあるような気がします。

インタビュー風景

小川:最近、伊藤 亜紗さんの『手の理論』を読んだのですが、触(さわ)ると触(ふ)れるの違いについて書かれていました。触るとは刹那的で無意識なもの、触れるとは相互貫入的でお互いの接点でもある、といったことが書かれていたんです。

なるほど我々が提供する家電などのサービスもこれだな、と思いました。ボタンひとつ押せば勝手に機能して終わるのではなく、相互貫入的なコミュニケーションが取れたら、我々のサービスがすごく面白くなるんじゃないかと思うんです。

ドミニクさん:面白いですね。家事などが自動化されればされるほど、人が床磨きもせず、服に触れて洗うこともしないし、器も触らないできれいになる。つまり世界と触れたり触れられたりする関係がなくなっていく。僕はその環境で生きることは想像できないな。

ものは設計されるわけですが、両義的な接点をもって、家電と人間がどうインタラクションしていくか。その発想は、しゃべる糠床を作ってる者として切実な議論でもありますね。

文化人類学の川田 順造さんが『文化の三角測量』(人文書院)という本のなかで、日本、ヨーロッパ、アフリカにおける道具と人間の関係の文化について書かれています。川田さんは、ヨーロッパはもともと「一神教的な人間中心主義」の世界であり、宗教的な観点から神が人間を作ったという思想が強く、自然も制覇して征服して使役するものだと捉えていた。それが現在では「自然史教的な人間中心主義」の世界となり、人間が中心となって自然をよくしていこうという発想と地続きなんだと。だから、道具に神が宿るような発想にはならず、道具は脱人間化して、個人の巧みさに依存しないように作られる。一方で東アジアやアフリカでは自然中心主義であり、人間は強大な自然に働きかけながら生きている。そこでは道具の人間化(日本)や人間の道具化(アフリカ)が起こり、道具と人間が適応しあって変化していく関係がある。亜紗さんの議論に結ぶと、人間を中心として考えるのは「触る」、自然を中心とする場合は「触れる」ということに近づきそうです。

現代では、家電や家を人間が制御して使役するものとして捉えるのが常識かもしれないですが、それを覆し、触れるし触れられる関係にするところから始まるんじゃないですかね。

多様性はお互いを生かし合う

渡邉さん:人間でも同じことが言えそうですね。デカルトが「我思う故に我あり」と、自己とそれ以外に分けたことともつながりますが、人間中心で考えると、個とそれ以外を明確に分けることになる。個が個として生きられるようにしよう、自立し、個の権利を重視しよう、という意味においては大事な思想です。でもそれだけでは、社会や人間関係が個人同士の「相互依存」で成り立っていることを否定してしまいかねない。誰かに頼ってもいい、相互依存先が複数あることこそが自立することなんだ、という考え方と、一見矛盾してしまう。本来は、これらが二項対立ではなく両立させることが求められていると思います。

小川:とても重要な社会課題ですね。一神教的な世界観と、二項対立の究極でもあるデジタルの世界、それと産業資本主義は相性がいい。でも前面化している問いは、人は自分のためだけに生きてるんですか?ということであって、まともな命の使い方を取り戻さないといけません。ケアにおける相互依存と社会課題のコンフリクト(衝突)は元々あって、ユニバーサルケアの重要性が伝えられるときも、基本原理は共生や相互依存ですよね。

中尾:ただ、家電と人間の相互依存はなかなか一足飛びには難しい気もします。人や自然が介入することが必要で、家電が単体での解決は難しいんじゃないかと。

渡邉さん:そうですね。これまでの組織は機能主義的で、上位に目的があり、それに従属するピラミッド的構造でうまくいっていました。しかし今、世界はもっと複雑に絡み合っているし、お互いに寄りかかりあってるという関係を思い出すのが最初の一歩な気がします。そういう意味では家電を単体で存在して主語にするのではなく、生活のシーンや人間とネットワークする関係性で捉えるのがはじめの一歩でしょうか。

ドミニクさん:僕はその感覚が昔からあって、本を書くときも、可能ならあとがきの感謝する人に100人くらい書きたいんですよ。恩師や家族や、究極はご先祖様とかも感謝したい存在ですから。

実は糠床と人間も同じように助け合っています。人間が玄米を削って出た、要らない米糠を使い、糠床の中で乳酸菌を出して、それで野菜の食味が良くなって、食べたらプロバイオティクスとなり、腸内環境も整います。糠床を通して乳酸菌と人間は相互依存、そして、触れる触れられる関係性が成立しています。

また、人間が放っておいても彼らは生きています。ある意味でそれは、非人間中心的でもあって、その意味でも糠床は面白いなって思うんです。人間が微生物をケアするように、という考え方は、社長が社員を、教師が生徒をケアするというときにも参照できるのではないかなと思います。

中尾:多様性を活かす、ということですか。

ドミニクさん:まさにそうですね。

インタビュー風景

一生付き合える家電でありたい

小川:前回も少し話しましたが、家電製品の悲しいところは、最初の購入時が最大価値ということです。その後は産業廃棄物への道を進んでしまう。エルメスの社長はかつて「修繕できることが最高のラグジュアリー」と言ったそうですが、家電でも設計のときから、もしかしたら一生のお付き合いになることを考えられるようにできたらいいと思うんです。ハードウェアのアップデートとか、人の介入が必要なところは適当なタイミングでちゃんとやって、お客様と繋がっていることでお互いに触れて触れられる家電を目指す。

これは最初の設計時から、材料の水平リサイクルなども全部考え尽くした上で始める必要がありますし、お客様との関係性も変わらざるを得ず、もしかしたら売り上げは下がるのかもしれませんが、それでもお客様にとって、我々が提供している価値が高まるような、そういう形のビジネスで、暮らしに寄り添うことができないのだろうかと考えています。

ドミニクさん:いいですね。うちはいただきものの土鍋を使い始めてから、もう10年くらい炊飯器がないんですね。でも別に炊飯器が嫌いなわけじゃないし、もちろん炊飯器で炊いたご飯も大好きなんです。でも違いってなんだろうと考えたとき、炊飯器ってケアができないんですよね。内釜を洗うことはしても、接触の仕方にケアしてる感じがないんです。一方で土鍋は自分で全部洗うし、触られている感覚、まさにケアしているように思います。

小川:なるほど、そういう感覚をアフォードする設計の炊飯器にすればいいわけですね。

中尾:いい靴を買って、ケアの道具も揃えたりすることで気持ちが上がるのと同じで、土鍋のように手入れをして、愛着が増す家電、いいですね。

小川:ケアすることで自分もケアされる家電。菌類と共生している自分もまた、菌がいっぱい住んでいる生き物であると考えたとき、家電との付き合い方ももっと、依存的で共生的で共同的であっていいわけですね。

お二人のお話から気づきを得て、アフォードするプロダクトやサービスを作っていきたいと思います。今日はありがとうございました。

(ライティング:やなぎさわまどか)


本記事に記載しきれていない対談内容を下記URLでも紹介しております。
https://dialogue.panasonic.com/questions/hungry_to_learn/037/