テクノロジーと共在して生きる全ての人類へ。

関係性をWell-beingにする、これからの技術とは。
テクノロジーと共在して生きる全ての人類へ。 テクノロジーと共在して生きる全ての人類へ。

Aug Labでは、暮らしを豊かにするロボティクス技術を追求するべく、研究者やクリエーター、デザイナーなど多様な専門家とともに、社会とテクノロジーの関係性をあらゆる側面から見つめ直しています。

次々と進化するスマート家電や最新技術によって日常生活の不便が解消される時代になった今、果たして人々の「幸せのかたち」は本来望んでいたものになっているのでしょうか?
ものづくりの側にいるからこそ感じる疑問を、二人の専門家とともに考えたいと思います。

人間を含む自然社会とテクノロジーの関係性を研究するドミニク・チェンさん(早稲田大学文学学術院教授)と、作り手と使い手の関係性が曖昧となる「コンテクストデザイン」を提唱する渡邉 康太郎さん(デザイン・イノベーション・ファームTakram/ 慶應義塾大学SFC特別招聘教授)をお迎えし、パナソニックグループCTO小川 立夫とAug Labオーナー安藤 健から、未来のテクノロジーのあり方について伺います。

自問するのはWell-beingとサステナビリティ

パナソニック小川:今パナソニックとして最も考えるべきことは、人を理解し、自然を理解することだと思っています。豊かな自然環境に身を置いた時の心地良さや、精神的に気持ちが満たされた状態を理解しようと思った時、従来のようにグラフや数値化で測るといった脳からのアプローチとは違った、何か「自然を理解する」ことから開ける可能性があるのではないか、と。
我々パナソニックはあらゆる形で暮らしの中に顧客との接点があるわけですが、それをどんな風に検証すれば、さらなる価値の提供や、次へ進む意味を示せるのか。かつては画期的な家電などを大量生産してお応えすることが求められていた価値観から、もっと暮らしのひとつずつに向き合ったり、個としての生き方に手間を掛けることが尊ばれるように社会が変化している今、我々は何をどうやってビジネスとして貢献できるのかと悩んでいます。今日は是非おふたりからアドバイスをもらえたら嬉しいです。

ドミニクさん:とてもいい問いかけですね。確かに私も、テクノロジーを用いて関係性をWell-beingにするという観点において、今さまざまな問題が起こっていると感じています。インターネット上のコミュニケーションを含めて、人の心の問題として見た時、多層的な課題が顕在化していると思います。
顕著に現れているのは、とにかく消費者の注目を集めようとする「アテンションエコノミー」と呼ばれる問題です。企業やメーカーに限らず、プラットフォームの利用者である我々ユーザー同士でもアテンションを奪いあい、コミュニケーションの射程がどんどん短くされている。瞬間的に多くの刺激を生み出すことが目的になって、爆発的なヒットを生み出そうとした結果、全くサステナブルではないコミュニケーション空間が広がってしまっているように思います。

人間の注意力は有限であり、コンピュータのように24時間ずっと情報処理することはできないのに、まるで際限なく欲望を喚起できるように動いてしまっています。人間の自尊心や自律性が考慮された設計になっていないため、メンタルヘルスの問題に繋がったり、大きな潮流に流されてるように感じる現象が起きる。ここには、わたしたちが取り戻さなければいけない価値感があると思います。

では何が望ましいかと言えば、エンジニアリングやデザイン、工学、自然、科学といった客観的に計測できる方法論の他に、定性的な評価軸であったり、従来の価値の定義を変えることも厭わないような探求のあり方が必要です。非合理なものがあることを認めた上で、どう向き合い、自分たちの意識をどう変えるのか。自分たち自身が変わることで世界も変わり、望ましい感覚を取り戻す方法を考えることが重要でしょう。そういう意味では、企業と消費者が一緒に話し合って、ものづくりをするフェーズに来ているんだと思います。

インタビュー風景

パナソニック小川:アテンションエコノミーの先にある世界を想像すると、瞬間的な欲望をどんどん消費して、それを無制限に続けて、みんな疲れてるけど逃げられない。そんなある種のディストピア的な未来を想像してしまいました。元々は効率的な選択だったことが、一つ間違うとただ消費することに行きかねない危険性もあるのに、ではどうしたらいいのか。その答えがまだ見つけきれていない感覚でいます。

パナソニック安藤:今のお話、どうしたら消費者とメーカーが持続的にWell-beingを作っていくことができるんだろうか、と考えながら伺いました。これはコンテクストにも通じる文脈かと思うのですが、渡邉さんはいかがですか?

渡邉さん:大事なテーマだと思いました。小川さんがおっしゃったように、テクノロジーの在り方は今、岐路に立ってると言えるのかもしれません。これまでのテクノロジーは課題解決や効率を上げるといった、基本的には顕在化している問題を解決するために使われてきたと思いますが、それとは異なるあり方も大事になってきますね。

機械によって便利になり、捻出された時間でもっと有意義な時間が増えるはずが、捻出された時間で紋切型の消費に時間を費やしていたら、なんだかやるせない。今後は時間を捻出するためのテクノロジーではなく、自分らしくいられる時間をなるべく長くできる、有意義な時間の確保を手助けしてくれることが重要になるのではないでしょうか。

すごくわかりやすい例えはやっぱり料理です。楽をしようと思えばインスタントも買えるしUber Eatsもあるわけですが、料理をしてる間、食べてくれる大切な誰かを思ったり、作りながら素材から旬を感じたりすると、その時間の全てが愛おしくなりますよね。他に、勉強にも同じことが言えると思います。まとめサイトやサマリーを読むこともできるけど、時間を掛けた方が実になるし、苦悶している時間はあとで血肉になることも多い。効率によらないものがいかに豊かで、いかに楽しめるか。家族との時間や、あらゆる趣味の時間が自己目的化するような、そうした価値観が次のテーマになるんじゃないかと思います。

インタビュー風景

ドミニクさん:自分を含めて現代人のひとつの病理として、無目的さに耐えられない、ということも関係していそうですね。空白の時間ができると何か有意義なことしなきゃ、と考えてしまう。一日中ボーッとしていたいと思ったら、自分のGoogleカレンダーに「ボーッとする」と書いて死守しないとできないような(笑)。

渡邉さん:効率性の概念についてすごく面白いのが、「はか」という日本の古い言葉です。元は一区画の田んぼからどれだけ作物が取れたかを考える言葉でした。ここから、物事が順調に進むことを意味する「捗捗しい(はかばかしい)」や、現代でもよく使われる「捗る(はかどる)」という言葉につながります。一方で実は、「はか」が無いことも良しとされてきた。仏教では、物事は移ろいやすいという無常感を大事にしていますが、「はか」が無いことが「儚い」に繋がります。日本の美意識の「もののあわれ」にも接続しますね。「はか」は有っても無くてもいい、効率も良いけど非効率も良い。同じ尺度で両極ともに良いというこの考え方、すごく面白いと思いませんか。

だからこそ、他人からは無駄や非効率に思えることを大事にしたいですね。人から与えられた価値観ではないということが重要です。誰もが知っている紋切り型の消費ではなく、自分だけがそこに意味を見出せるようなこと。効率とはつまり、他の人と交換可能なものを、共通のものさしの上で楽しんでいるに過ぎないわけです。その逆で、時間を掛けることで自分にしか宿らない意味を探ることが面白い。自分だけの意味に気づくためには、どうしても非効率な時間の介在が必要だと思います。個人的にはこうした感性がテクノロジーと出会ったときに何が起きるのか、関心を寄せています。

ものづくりが活きる、暮らしに潜んだニーズ

パナソニック小川:もうひとつ最近考えていることは、家電製品ってなぜこんなにも悲しい宿命なんだろうか、ということです。大量生産のラインに乗って、家に来たときが価値の最大値、それ以降は減価償却するようにいつか廃棄されるまでの道を進むだけになってしまっているからです。

資源を大切にすることが求められる今、サーキュラーであるものづくりをするのであれば、ユーザーにとっては使えば使うほど価値が上がるような家電は作れないものか、と悩ましくもあります。使うほどに愛着がわく財布のようなものと違い、プラスチック製品の家電でも触っている間に愛おしさが増していくようなことは実現できるのだろうか、と考えてしまうんです。

インタビュー風景

渡邉さん:全てを完全にシフトしなくても、そういう実験を行なっている会社の存在は尊いと思います。
今日ははじめにお茶をいただきましたが、茶道では「不完全の崇拝」という考え方が大切にされています。侘茶の始祖とされる村田珠光の言葉に「藁屋に名馬をつなぎたるがよし」がありますが、これは、美しくて毛並みも良い、脚も速いし戦にも使える名馬を、一見ボロい藁屋に繋いでおくことで、大きな対比の中に何を見出すか、という問いかけです。その矛盾ともいえる組み合わせの中に彼は美を見出し、良かったらわたしの茶室に来ませんか、といざなっている。もちろん藁屋はただボロいだけでなく、時間経過によって蓄えられた独特の美しさがあるのだと思いますが、こういった価値は必ずしも万人で合意するものではない。一人ひとりの中に意味が芽生える、芳醇な時間に繋がるための招待状なんですね。

僕が勝手にパナソニックに期待していることは、いわば一人ひとりの意味が芽生える入り口となるようなプロダクトやサービスです。万人向けではなくとも、テクノロジーが答えではなくきっかけを提供してくれて、使い手一人ひとりが独自の意味づけを行ったり、新たな対話が生まれたりするような、そういった「はじまり」に期待したいです。

ドミニクさん:渡邉さんの話に少し重ねると、去年出した本(『コモンズとしての日本近代文学』イースト・プレス刊)でも触れたのですが、近年アノニマスデザインと呼ばれてる流れが起きています。インターネット上で無名のクリエイターたちがさまざまなプロダクトやプロトタイプを作っている時代になり、作品の愛で方や審美眼が問われているような気がしています。電子出版や3Dプリンターなどを使えばいくらでも雑誌や作品が作れるんですから。もしも柳宗悦に3Dプリンターを渡すことができたら、きっと面白がったでしょうし、彼なら機械的な生産とは違う価値を見出すことができたでしょう。

少し厳しい言い方をすれば、先ほどの名馬やこうしたものづくりの価値を、「3万いいね!されました」みたいな価値のみで表していたら、それはある種の思考停止、価値判断の放棄でもあるわけです。もちろんこんな複雑な世の中を生きていくためには、思考停止しないと生きていけないこともあるでしょうから、それだけが悪いとは言いませんが、ただ、自分が何を価値だと思っていたかを忘れてはいけないと思います。

自分が選択することの価値を作るとか、自分はこれが良いんだと言い張って自分を納得させるとか、少し面倒くさいことを続けていかないと人間はすぐに惰性に傾いてしまう。自分自身の風味や、自分自身にとってのおいしさ、面白さといった感覚が薄れてしまうと、他者と同一化し、均一化してしまう。それなのに、個性をもちなさい、という矛盾したメッセージを受け取っている若い世代は、今とても四苦八苦してるように感じます。

私の尊敬する岡田美智男さんが作った、助けが必要な「弱いロボット」であったり、京都大学の川上浩司先生が提唱する不便によるベネフィット「不便益」などからわかることは、非効率な経路からしか生まれない価値や認識はある、ということです。なんでも効率良く動かして人間はただ座っていればいい、というようなプロダクトデザインでは、人間というハードウェアの潜在能力をもったいない形で眠らせてしまいます。私たちは声を大にして、そんなものは嘘だ、と言わなければなりません。これは企業や経済界も想定しておくべきことだと思います。

渡邉さん:「この映画は泣ける」と言われてそれを選んじゃうような予定調和ですよね。見終わった後の感覚ほど、事前に答え合わせしちゃいけないはずなのに、と(笑)

インタビュー風景

パナソニック小川:以前、電動車椅子を手掛け始めた時も、「車椅子を使う高齢者のことを全然わかってない」とお叱りを受けたことがありました。技術者としては必死に、車椅子同士の間隔の詰め方やかっこよく横切る運行ができるように実現したのですが、ユーザーの皆さんが本当に求めていたのは、自分で移動でき、自力で食事やトイレができること、誰かのために役立っていると感じながら生きることで、便利な車椅子をかっこよく操作したいわけじゃなかったんです。明確な答えがすぐに見つかるわけではない問題ですが、我々が提供すべきことを実感して目が覚めた気がしました。

手助けする関係性は信頼から

パナソニック安藤:そうした、本質的に人に寄り添えるスマートエイジングケアについては、今後もっと求められていくように感じています。本当なら、要介護度が下がって、お年寄りが元気に暮らしてくれる方が良いわけですから。ただこれをビジネスとして成立させるにはどうしたらいいのか、ということは我々の課題でもあります。交渉は茨の道のような難しさもあるのですが、でもここに本質があると信じたいです。

渡邉さん:さきほどドミニクさんがおっしゃったアテンションエコノミーに重なりますが、自分たちにアテンションを求める理由はビジネスの、それも短期的な思惑がありますよね。広告のビューを上げたいとか、サブスクの解約を減らしたいとか。でも結局は、持続可能でない「注意力の奪い合い」しか残らない。ビジネス側のゴールは自社の製品かサービスが人の注意力を独占している状態ですが、それは人からすると、単純にディストピアです。あらゆるビジネスで、ゴール設定が独りよがりになってしまってはいないでしょうか。

スマートエイジングケアをビジネスとして実践することが課題ということですが、人の心を捉えるのはやはり、私的な利益だけのために動いてるわけじゃないとわかることですね。「自社サービスを使ってもらって単に儲けたいのではなく、健康になってもらい、むしろいつか自分たちの技術からは卒業してもらいたいんだ」と明言するのはいかがでしょうか。一見損に見えても、長期的な信頼を勝ち取るでしょうし、使い手の目線に立ったゴールを示すことで新しい風穴を開けられると思います。

インタビュー風景

ドミニクさん:確かに「信頼」はデジタルなWell-beingにおける大切なキーワードですね。何かのテクノロジーやサービスを使うことで、運動不足だったシニアが「歩く」というプロセスを楽しめるようになったら、それはもう身体的にも信頼感が生まれるはずです。自分たちのサービスを使っていること自体が善であるという発想を取っ払い、本当の意味の顧客目線にたどり着けるのかもしれません。

渡邉さん:以前、文化人類学者の竹村真一さんが、「スマートシティでもスマートフォンでも、テクノロジーが標榜する『スマート』は、本当にスマートなのか。そのテクノロジーは、人間をスマートにしているのか」と、問うていたことがあります。確かに、一歩間違えたらテクノロジーが人間をばかにする(侮る)、あるいは、馬鹿にする(愚かにさせる)可能性があるわけです。つまりテクノロジーやその背後にある思想が、人間の可能性を見限っているかもしれないし、実際にわたしたちから知性や身体性を奪う一方かもしれない。こうした畏れはサービス提供側が常にもっていなくてはいけない、という投げかけです。

また彼はこれに対比するものとしてインドのサリーを挙げて、一見何ら作り込まれていないような一枚の布が服になり、強い日差しや強風があればすぐに着方を整えて機能の組み換えができる、その工夫が人間に委ねられていることを伝えていました。わたしたちは、服といえばしばしば便利な素材や予めの作り込みに注目してしまいがちですが、むしろある種の不便さは人間の創造性を引き出すテクノロジーとしても働いているんですね。これからの時代は、使い手が自分の手を動かしたり、想像力を発揮したりといった行為を助ける技術が大事になってくると思います。

パナソニック小川:家電や住空間の価値の進化を考える時にも重要なポイントになりそうですね。前半でも出たように、これまではいかに効率的に家事の時間を減らすかに邁進してきたんですけど、そもそも掃除も洗濯も生きていくためにしているものであって、そこに何かしらの身体性が持てることは大事な価値観なわけですね。

ドミニクさん:機械に任せていた行為をあらためて身体化したり、自分で考えながら向きあえると、その時間や行動に愛着のようなものが生まれてくるでしょうね。たまたまなんですけど、先週うちの洗濯機を10年振りに買い換えてパナソニックさんの洗濯機にしたんですよ(笑)。古い洗濯機を交換するとき、妻と娘が洗濯機の写真を撮って「今までありがとう」と声を掛けたりして、供養式みたいなことをしていました。それほど愛着があったんですね。それでも新しいパナソニックさんの洗濯機が来たら、妻は明らかに洗濯が楽しそうなんです。今日はこの洗い方をしたから次は温水でやってみよう、とか、洗濯というタスクの効率性よりも、自分の服がどういう感覚で洗われているのか、どんな風に仕上がるのか、と探ることが楽しそうなんです。服の感触を楽しむというプロセスを感知する時に、これは最大限良い意味で言いますが、洗濯機は媒介以上でも以下でもなく、妻なりのコンテクストで、以前とは違った「洗濯感覚」を感知している様子を目の当たりにしました。

パナソニック安藤:そういう意味ではパナソニックはこれまで、人生の至るところでプロダクトを買っていただいた後にノータッチのビジネスモデルだったんですよね。今のお話のように媒介になりながら、点だった接点をもう少しトータル的な繋がりにできると良いのかもしれません。

パナソニック小川:現場の人間も悩ましいところではあるんですが、家電がIoT化する中で、今のお話でいえば、ユーザーが利用した洗濯コースのデータを元に、次のリコメンドなども可能になります。ユーザーと服の関係性がもっと良いかたちで継続できるように提案する役割を果たせると良い、と仮説としているんですが、今はまだ仮説の域を出ないでいます。

ドミニクさん:僕は以前学生たちに「卒業できるテクノロジー」を考えてもらったことがあるんです。僕自身、ぬか床の微生物と会話するNukabotというものを作っていて、これはかき混ぜるタイミングを教えてくれるぬか床なんですが、なぜ自分たちでかき混ぜるのか?と議論したのがきっかけになりました。工学系の仲間たちからは、ロボットアームをつけて人間の代わりにかき混ぜるようにすればいいのに、とツッコミを受けるわけです。

しかし僕は、人間の手でかき混ぜることによって常在菌が移り込み、その家庭ごとに独特の風味が生まれるという仮説を立て、微生物学者と一緒に調べています。なのでNukabotに依存する人を生み出してはいけないと気づきました。むしろ、いつかNukabotを使う必要がなくなるようにするべきだ、と。
初めのうちは、「そろそろかき回した方良いよ」とぬか床の状況をNukabotに教えてもらい、そのうちに教わらなくても自分でわかるくらいエンボディ(身体化)したら、もうNukabotからは卒業の時です。ある種の補助輪の役割ですね。このツールを使うことで、依存しないでも、より面白い世界にたどり着けますように、というひとつのインビテーションでもある。設計者としてはこうしたプロダクトに誇りをもてるので、このナラティブを学生にも共有したいと思いました。

インタビュー風景

Nukabot ver.4 (Ferment Media Research) photo by 守屋輝一

渡邉さん:今のお話を聞いていて、テクノロジーにできることは、旅に喩えて三つあると思いました。ひとつはまさに補助輪としての役割で、「少し怖いけどこれがあれば転ばない、漕ぎ出してみよう」と思わせてくれること。ふたつめは、漕ぎ始めた人が楽しくなってきた時に、いま・ここをもっと楽しめるような、習熟を誘うような工夫。そして、大事なのは三つ目で、目的地の可能性や、到着地の風景を見せてあげることです。想像を膨らませて、この旅がどう広がっていくだろうかと考えさせてくれる存在です。ドミニクさんのご家族が洗濯感覚を養っていたのはふたつめにつながりそうです。Nukabotからの卒業を促すのも、ふたつめや三つ目に関連していそうですね。
パナソニックさんでは一部取り組んでいることもあると思うんですが、ライフスタイルそのものを扱うということになるんでしょうか。

パナソニック小川:ものすごい重要なことですね。ケアする人、あるいは、ケアをしてその後どうなろう、という視点をもてるようになる。

ドミニクさん:単に効率性を競うよりも、当事者意識が強まりますね。例えばその洗濯機や掃除機があることで、家族間のコミュニケーションにどんな変化が生まれるのか。関係性に良い影響を生み出すきっかけになれることで初めて良いプロダクトになる。それこそが持続的なWell-bingのように思います。

インタビュー風景

テクノロジーがつくる、働くことのWell-being

パナソニック安藤:今日はもう一つ、テクノロジーと働き方についても、これからのかたちをお二人に伺いたいと思っていました。コロナ禍の在宅勤務も増えて、いろんなテクノロジーの使われ方があるものの、あんまりうまく使われてないんじゃないかと危惧しています。パナソニックの中でも「暮らしのWell-bing」と「働くことのWell-bing」が重なってきた感もあるんですね。今後、どんな技術が貢献できると思われますか。

ドミニクさん:リモートワークになったことで、なんだか無限にはかどるように思ってしまう雰囲気は感じています。思っていなくても、そういう力に突き動かされている、とも言えるでしょう。コロナ禍前は「同じ空間にいる」だけで無目的に時間を共有できていたんですよね。会話を交わしていなくても、離れたところにいるだけでお互い意識の中に存在できていた。
ある種のノイズとして共有していた部分も大きかったわけですが、今はノイズを排除し、目的で繋がること以外は無意味に感じるようになっている。オンライン飲み会や雑談時間といったものが不発に終わりがちなのは、かつてあった無目的なノイズを共有する技術がまだ確立できてないからだと思います。

緩やかな共在感覚を醸成したり、あるいは、強すぎる共在を緩めるような調整が必要になると思います。オフィスでぶらぶらダラダラした時間が、実は非常に組織と共同体を支えていた。その事実に僕たちは事後的に気がついたわけで、今後この問題解決にどんなコミュニケーションツールが生まれるのかはとても興味があります。

インタビュー風景

渡邉さん:今の話、すごく共感します。リモート会議は確かにはかどる部分もあるのでその恩恵にはあずかってるんですが、でも注意しなきゃいけないのは、人間が言語とロジックとアウトプットに支配されやすくなることだと思います。リモート会議の中でしっかり語れた人、論理を構築できた人、成果を上げた人が目立ち、評価を受ける。もちろん大きな価値があることだけど、でもそれだけに偏ってしまうと、共在してるだけで養われていたはずのカルチャーが置き去りになってしまうかもしれません。

人間は、理性をもっている尊い存在ですが、同時に感情をもった動物でもある。我々は、一見不条理な感情をちゃんと愛でてあげる必要もある。感情は、特にビジネスの現場ではないがしろにされがちですが、むしろ我々はロジックツリーによらない、感情の部分によってこそ動かされている部分が大きい。肌で感じ取る非言語のコミュニケーションはどうしてもリモートでは伝わりづらいので、この意識をいかに取り戻すかが大事だと思います。

脳科学を専門とする東北大学の川島隆太教授は、本来、人と対面で話す時に働く前頭前野が、同じ人とのリモート会議では働かないといった話をされています。仕事には効率化だけでなく、そうした感情や感性を取り戻す意識、つまり、会うこと自体を目的にすることも必要な気がしますね。

パナソニック小川:まさに今お二人が語られたことが我々の抱える悩みでもあります。リモートで、よし雑談しようと時間を取っても大した話にならない。じゃあ飲み会しようとしても全然盛り上がらない、といったことを十分に経験しました。かつて職場にいた時に非言語でも存在を感じ取っていたことや、ちょっとした短いワードが行き交っていたことでチームの強さがあったんだと如実に感じている次第です。リモートが前提となった時に、テクノロジーで何でも解決できるとは思わない方がいいんじゃないのか。そしてまさに、会うこと自体を目的にする設計の方が大事なのかもしれない、と感じます。

自分ひとりでがんばらなきゃいけないと思うことを減らし、チーム間の緩い共在を実現できたら、息苦しさや生きづらさも減らせるかもしれない。そうした可能性を追求していきたいです。今日はどうもありがとうございました。

(ライティング:やなぎさわまどか)


本記事に記載しきれていない対談内容を下記URLでも紹介しております。
https://dialogue.panasonic.com/questions/post_wlb/020/